1965/01/19 Tue
きみの声はよく響いた。きみが云った言葉は心地よく耳に残って、慣れ親しまれた散文詩のように何度聞いても飽きることはなかった。
たとえば冬。吹き荒れる風声の物凄い音が恐ろしいくらいに聞こえる寒々しい夜。そんな夜には暖炉の前できみと夜更けまで話をした。私はそのことをだいたい憶えてしまっている。きみのつむぐお話はどれも私の子供心をくすぐって、わくわくとさせてくれた。話しをするときのきみの朗らかな表情はぽつぽつと燃える暖炉の灯りを浴びて情緒ある絵画の様だった。私はすっかりきみに陶酔していた。きみに目を奪われ、言葉に耳を澄まし、意識を霞ませてゆらゆらと揺り篭にいるような気持ちでいた。私はそんな詩人のようなきみの語り口を真似したかったけれどどうもうまくいかなかった。きみは私をとりこにする天才だったんだよ。きみのことを思うと私は優しい気持ちになれる。春の陽気をふんだんに含んだ羽毛のような、ぽかぽかとした懐かしいぬくもりが思い起こされる。それはぜんぶきみがくれたものだ。その宝がいまも私の荒んだ心を癒してくれる。
私は元気に暮らしているが、きみはどうだろうか。返事をくれないから心配で仕方がない。いますぐきみに会いたい。けれどもうすぐ私のやっている研究の発表がある。最後となるこの研究論文はどうも他の人々には受け入れ難いものらしく、どうすれば理解してもらえるのか発表の仕方というやつを今調整している。もしきみがあの語り口で代弁をしてくれるのならきっと完璧な発表になるのだろうけれど……。私はもう一ヶ月近くろくに寝ていない。きみのいないちょっとの間に私の部屋は汚くなってしまった。こんなことを書くと心配されるかもしれないが忙しいわりに私はほんとに元気でやっているよ。一人でいるのは淋しいけれどきみの声の残響が慰めてくれるからまだ大丈夫だ。
こんな短い手紙でほんとうに申し訳ない。実はいまチームのメンバーが家に来ていろいろとディスカッションをしていて、あの暖炉がある部屋は今とても賑やかだ。私はちょっとその輪を抜け出して、この手紙を書いている。この会議が終わったらいよいよ発表だ。それまでにすこし日があるけれども、その時間は部屋の掃除に当てるつもりだ。きみが帰ってきたらまた、あの暖炉の前の椅子に腰掛けてお話を聞かせてもらいたいから。
最後に。一言でもいいから返事が欲しい。心配だ。そっちはずいぶん山奥らしいけれど、この時期は寒いからよく暖かくして風邪をひかないようにしてくれ。きみが無事に帰ってくるのを楽しみに待っているよ。
R博士はこの手紙を出す直前に妻が別の男と駆け落ちしたことを友人から知らされた。手紙は誰にも読まれなかった。
応援する!


きみの声はよく響いた。きみが云った言葉は心地よく耳に残って、慣れ親しまれた散文詩のように何度聞いても飽きることはなかった。
たとえば冬。吹き荒れる風声の物凄い音が恐ろしいくらいに聞こえる寒々しい夜。そんな夜には暖炉の前できみと夜更けまで話をした。私はそのことをだいたい憶えてしまっている。きみのつむぐお話はどれも私の子供心をくすぐって、わくわくとさせてくれた。話しをするときのきみの朗らかな表情はぽつぽつと燃える暖炉の灯りを浴びて情緒ある絵画の様だった。私はすっかりきみに陶酔していた。きみに目を奪われ、言葉に耳を澄まし、意識を霞ませてゆらゆらと揺り篭にいるような気持ちでいた。私はそんな詩人のようなきみの語り口を真似したかったけれどどうもうまくいかなかった。きみは私をとりこにする天才だったんだよ。きみのことを思うと私は優しい気持ちになれる。春の陽気をふんだんに含んだ羽毛のような、ぽかぽかとした懐かしいぬくもりが思い起こされる。それはぜんぶきみがくれたものだ。その宝がいまも私の荒んだ心を癒してくれる。
私は元気に暮らしているが、きみはどうだろうか。返事をくれないから心配で仕方がない。いますぐきみに会いたい。けれどもうすぐ私のやっている研究の発表がある。最後となるこの研究論文はどうも他の人々には受け入れ難いものらしく、どうすれば理解してもらえるのか発表の仕方というやつを今調整している。もしきみがあの語り口で代弁をしてくれるのならきっと完璧な発表になるのだろうけれど……。私はもう一ヶ月近くろくに寝ていない。きみのいないちょっとの間に私の部屋は汚くなってしまった。こんなことを書くと心配されるかもしれないが忙しいわりに私はほんとに元気でやっているよ。一人でいるのは淋しいけれどきみの声の残響が慰めてくれるからまだ大丈夫だ。
こんな短い手紙でほんとうに申し訳ない。実はいまチームのメンバーが家に来ていろいろとディスカッションをしていて、あの暖炉がある部屋は今とても賑やかだ。私はちょっとその輪を抜け出して、この手紙を書いている。この会議が終わったらいよいよ発表だ。それまでにすこし日があるけれども、その時間は部屋の掃除に当てるつもりだ。きみが帰ってきたらまた、あの暖炉の前の椅子に腰掛けてお話を聞かせてもらいたいから。
最後に。一言でもいいから返事が欲しい。心配だ。そっちはずいぶん山奥らしいけれど、この時期は寒いからよく暖かくして風邪をひかないようにしてくれ。きみが無事に帰ってくるのを楽しみに待っているよ。
R博士はこの手紙を出す直前に妻が別の男と駆け落ちしたことを友人から知らされた。手紙は誰にも読まれなかった。
応援する!

Comment*2
せつない・・・。
手紙の中で自分の近況を語っているときも、妻のことを中心に据えて書いてる。だから余計にせつなくなりますね。
せつない話だけど、よかったです。また来ますね^^
うたう | URL | 2008年03月08日(Sat)14:59 [EDIT]
コメントありがとうございますヾ(o゜ω゜o)ノ゛
仕事に没頭するがあまり妻を顧みない男を書きたかったのでした。自分では愛していると思っていても、相手にそれが伝わっているかどうかは謎で別な話だという現実。ほんのりセンチメンタル。
実際にこんな別れ方になったら卒倒もんですけど……
ΣЩ(゜Д゜ )Щオーマイガー
シドロモドロ。 | URL | 2008年03月08日(Sat)22:08 [EDIT]
| Home |



